ファッションの歴史 Part.1

ファッション、服装、衣装、服飾・・・身に着ける衣服を形容する言葉はいろいろありますが、このブログは「ファッション」という単語に限定しようと思っています。というのは、誕生や歴史を語ろうとしたときにどこまで遡れば良いのか非常に悩むのです。人類が他者を気にして何らかの物を身につけるようになってからの歴史だとあまりにも範囲が広すぎるので、「ファッション」の本来の役割である「流行」を意識した服装が登場してからのことを中心に書いていこうと思います。
服飾史をなぞっていこうと思ったのですが、「服飾」だと小物なども入ってくるようなので結構際限なくなってしまいますし、そもそもタイトルが『ファッション』ですからね。

そういう観点からすると、ファッションの発生と誕生には社会の側にそれなりの条件が必要になってきます。
たとえば、古代社会や中世封建社会における階級制は生活を規制するので、自己表現をすることは困難です。こういった社会では、人々は伝統・慣習に従って生活するため、ファッションの発生は難しいでしょう。ところが階級制や身分があいまいになってきた近代社会、それも都市部においては、新しいスタイルは比較的自由にうまれたはずです。
したがってファッションは、近代辺りから発生し、民主的社会においてより活発に展開していったのではないかと思われます。そして、経済的・時間的余裕はさらにこの傾向を促進させ、売買の活発化により平均的な最低物資が充足され、日常生活がある水準に達した段階で人々はファッションを積極的に活性化させていったのではないでしょうか。


ファッション


西洋史における近代、即ちルネサンス期以降欧米各地での市民権運動が活発になったことから、衣服を「ファッション」として認識するようになってきたと見て良いのではないかと思います。
今でも、定期的に新ファッションの発表を行っている地域に限定し、簡単に変遷をたどってみます。

●パリ(フランス)
15世紀以来、国家的産業としてファッションを保護し続けたフランス政府の意向を受け、宮廷社会の衣装を創作する芸術的感覚と高度な技術を生み出すための地盤を築いたパリは、18世紀までに「パリ・モード」の名声を手中にしていました。19世紀になるとシャルル・フレデリック・ウォルトによりhaute-couture(オートクチュール)が誕生し、以来ポール・ポワレ、ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、クリストバル・バレンシアガ、イヴ・サン・ローランなど、現在まで名を残すような才能あふれるデザイナーが登場し次々と新しい流行を生み出すようになりました。そして1960年代以降、preta-porter(プレタポルテ)がファッションの主導権をとるようになった今日も、ファッションの中心地として、常に世界をリードし続けています。
●ロンドン(イギリス)
18世紀以来、パリとロンドンはファッションのライバルとして競い合ってきました。19世紀になると、パリの方が、ナポレオン3世の后であった美貌のユージェニー皇后をファッション・リーダーに擁しリードを奪いました。一方、ロンドンの社交界には皇太子の友人であり、伊達男とうたわれたブランメルが登場し、ダンディズムの素となると共に、メンズ・ファッションに大きな影響を与えました。19世紀にほぼ近代的様式が確立された紳士服は、以後しだいに形の厳しさと正確さとを増し、ロンドンはその中心地として今日に至っています。
●ミラノ(イタリア)
今では近年パリと肩を並べるほどのファッションの発信地となったミラノですが、ルネサンス以後、綿々と高度な職人的技術と芸術的センスを受け継いでいながら、イタリアの国家的統一の遅れといった政治的事情によりファッションの中心地として主導的立場にたつまでには至りませんでした。しかし従来から、フランスファッションの生産基地として徐々に力を蓄えていたこともあり、1970年代以降ミラノ・コレクションを開催し、独自的で日常的高品質ファッションを生み出して注目を浴びるようになりました。
●ニューヨーク(アメリカ)
19世紀なかば以来、ミシンの発明と南北戦争とにより紳士用既製服を産業化したアメリカでは、その後20世紀初めにかけては婦人用既製服産業を成長させました。以来ニューヨークは、オートクチュールからプレタポルテへと移行していたヨーロッパ各地の流れに従い急激な成長を遂げ、今日の既製服産業最大の中心地となっています。

このように現在世界には、歴史的背景と環境の特徴を生かしながらファッションを生み出しているいくつかの都市があります。しかし、今後ますます発達する情報伝達メディアにより、相互に影響を与えあうことによって、世界的に均一化の方向をたどるのではないかと思われます。


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