ファッションの歴史 Part.2

★日本でのファッションの変遷(男性編)

一方日本でのファッションとはどういった経緯をたどったのでしょうか。まず、容易に想像できるのは「歴史が浅い」ということです。
というのは、欧米からの影響を受けて取り入れられたファッション、いわゆる「洋服」に限定して考えると、150年程度しか経っていないということになりますね。

日本で服装の西洋化が広まるようになった直接的な要因は1858年の日米修好通商条約だと言われているようです。この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳など直接外国人と交渉をする立場の人々を中心として広まっていくことになりました。
以前、1543年に種子島ポルトガル船が漂着した時から鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などには西洋の服飾は流通しており、江戸時代末期には長崎の出島などでは特別珍しいものではなかったようですが、全国区という意味合いでは条約以降でも良いかと思います。

日本においての洋服の大量生産のキッカケは戦争でした。
記録に残っている限りでは、1864年禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決めたというのが初のようです。小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げたということです。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭となっていきました。
その後しばらくは、小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになり、1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今(自今:じこん)禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化する事となっていきました。

やはり各国と同様普及の始まりは政府発信のようですね。


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★日本でのファッションの変遷(女性編)

一方女性間での洋服の普及は男性服に比べると遅れているようです。
明治維新(諸説あるため1850年代前後とします)以来の文明開化の波は、日本人の洋装化を促進させたとはいえ女性服においては看護婦、女学生などの制服に取り入れられたのみでありました。鹿鳴館風俗が日本女性の洋装の始まりだとする説がありますが、これらは舞踏会などのための社交服であり、日常の生活服ではなかったという点で、かならずしも一般的な現象とはなり得ませんでした。日常服としての洋服は、大正の終わりから昭和の始め(1920年代)にかけて一般女性にも浸透していきましたが、本格的に広く着られるようになったのは第二次世界大戦後のことでした。

1923年の関東大震災では和服を着用していた女性の被害が多く、和服が動作に支障をきたしたということから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むキッカケとなりました。このときからそれまでの独自の着物文化にかわって急激に洋服が浸透していくことになります。そして明治維新以来、繊維産業の発展に力を注いできた日本には、すでに洋装化への下地が固まっており洋裁ブーム時代が到来することになりました。
1927年9月21日には、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催されました。これは驚いたことに、一般からデザインを募ったファッションショーでした。
また、日本橋にあった「白木屋」デパート(旧・東急百貨店日本橋店の前身、現在の「コレド日本橋」)で発生した大規模火災では、やはり和装の人々に被害が多かったという事で、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加し、それに伴い大衆の服装の洋式化も徐々に広まっていきました。
一方、1930年代後半から1940年代前半にかけては、戦時体制により繊維・衣服の統制が極端に進み、さらに百貨店自体の売り上げが低迷期に入りました。1945年には衣料切符制度がとられ、国民服と呼ばれる統一規格の洋服が配給され、数少ない配給衣服の着用での生活を余儀なくされることになります。絶対量が少なかったため、和服をもんぺに作り替えて着用していたようです。

戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカを主とする連合国からの援助に頼ることになります。そして、食料など様々な物資不足、衣服不足により闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始めました。皮肉にもこの事は、「占領軍ファッション」として中古アメリカ衣料への傾倒が起こり、いわば戦後初めての流行感覚が生まれたと言えるでしょう。

ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃になります。日本の繊維産業はすべて手探りの状態から、ビニロンテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの化学繊維の開発、製造を始めました。
1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたフランス人デザイナーのC・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まりました。しかし実際は基本的に注文品で、いわゆるオートクチュールでしたので、日本国内では繊維不況のため大衆の手には入りにくいものでした。
1958年には、同じくフランスのP・カルダンが来日。一転して量産のプレタポルテの時代が到来します。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなっており、この後1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになりました。とはいえ、修繕した継ぎのある衣服は、家庭での普段着や作業着として当たり前でした。

以降、化学繊維を中心とする繊維産業の飛躍的発展によって戦後の乏しい衣料時代は過ぎ去り、1970年代頃には、生理的・物理的には豊かな衣生活が送られるようになっていきました。そして、大衆消費社会の到来、伝達方法のスピードアップ、余暇時間の増大は、テンポの速い生活様式を出現させ、既製服への依存は必須となりました。さらに、質的向上に伴って衣生活には多様性が要求されるようになり、ファッションへの関心は急激に高まりました。
そして今日の日本では、世界的レベルの日本人デザイナーが活躍し、ファッション産業は日々多様化する衣生活に対応しつつ、大衆社会と切り離せないものとなりました。現代生活のなかでのファッションは、私たちの衣生活を物理的に充足すると共に、精神的充足の役割を担っていると言えるでしょう。



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